夏の終わりに熱を出した夜、寝室のドアが静かに閉まる音がしました。枕元には、いつのまにか置かれた冷えた水のコップ。ありがたいはずなのに、閉まったドアの音のほうが、なぜか長く残っています。片方は「静かに休ませてあげたい」と思い、もう片方は「少しだけ顔を見たかった」と思っている。責める気持ちはどちらにもないのに、同じ夜に、二人の優しさは別の形をしていました。(架空の物語です)

この記事でいっしょに考えること

  • なぜ、看病してもらった夜に少しだけ寂しくなることがあるのか
  • 相手の優しさの形は、どこで決まっているのか
  • どうすれば、優しさの形の違いは伝わるのか
  • 「どうしてほしいか」を言うのが難しいのは、どんなときか

なぜ、看病された夜に少しだけ寂しくなるのか

結婚2年目の、八月の終わりでした。

片方が夏風邪をひいて、夕方から熱が上がりました。

寝室のカーテンを閉めて、エアコンの設定温度を下げて、もう片方は「ゆっくり寝てて」と言ってドアを閉めます。

枕元には、水のコップと、買ってきたばかりの冷却シートが置いてありました。

それでも、寝込んだ側の胸に残ったのは、閉まったドアの音のほうでした。

体調を崩した日に寂しくなるのは、相手が何もしてくれなかったからではなく、相手の手当ての形が、自分の受け取りたい形と少し違っていたからです。

ドアの向こうからは、台所の小さな音が聞こえていました。

鍋を火にかける音。冷蔵庫を開ける音。ビニール袋を畳む音。

そのどれもが、自分のために動いている音だと、頭では分かっています。

けれど熱のある夜は、頭で分かっていることが、うまく胸まで届きません。

一度だけ、ドアが開いて「何かいる?」と聞かれました。

「大丈夫」と答えると、ドアはまた静かに閉まりました。

本当は、大丈夫ではありませんでした。

薬が飲みたかったわけでも、おかゆが欲しかったわけでもなく、ただ、少しのあいだ隣に座っていてほしかっただけでした。

でも、それを言葉にするには、そのときの二人はどちらも少し疲れていました。

寝込んでいる側と手当てしている側。同じ夜に、二人の優しさは別の形をしていた

優しさの形は、どこで決まるのか

翌朝、熱は 37 度台まで下がりました。

台所には、蓋をしたままの鍋と、小さな紙が置いてありました。

「食べられそうなら温めて。無理しないで」

その字を見て、寝込んだ側はようやく、昨夜の台所の音の意味が分かった気がしました。

人は普段、相手にしてほしいことではなく、自分がされたら安心することを、優しさとして相手に差し出しています。

もう片方の実家では、体調を崩した人は静かな部屋でひとりで眠らせるのが普通でした。

心配で何度も顔を出すことのほうが、相手を休ませない、と教わってきたのです。

だから、ドアを閉めたのは、距離を置いたのではなく、その人にとっての一番丁寧な手当てでした。

寝込んだ側の実家は、その逆でした。

熱が出れば誰かが枕元に座って、他愛のない話を少ししてから部屋を出ていく家でした。

同じ「大事にする」という気持ちが、片方では静けさになり、もう片方ではそばにいることになっていた、というだけの話です。

心理学には、見えない支え(invisible support:受け手に気づかれない形で行われる手助け)という考え方があります。

支えていることを前面に出さないほうが、受け取る側の負担になりにくい、という傾向が報告されています。※

ただし、これはどちらの形が優れているという話ではありません。

静かに整えられた部屋を心強いと感じる人もいれば、気配が消えたことのほうを強く感じる人もいます。

二人の間で起きていたのは、優しさの量の差ではなく、形の違いでした。

どうすれば、二人の優しさの形は伝わるのか

熱が下がって数日たった週末の夜、二人は台所で並んで洗い物をしていました。

そのとき、寝込んだ側がぽつりと言いました。

「あの夜、ちょっとだけ隣にいてほしかったんだ」

優しさの形の違いを埋めるのに要るのは、その場での要求ではなく、元気になってから「あのとき、どうしてほしかったか」を一言ずつ渡し合うことです。

1 つ目の順番は、まず相手がしてくれたことを先に置くことでした。

「鍋、温めて食べたよ。あれ、助かった」

してくれたことを飛ばして希望から入ると、どうしても、足りなかったところの話に聞こえてしまいます。

2 つ目の順番は、そのあとで、希望を 1 つだけ小さく言うことでした。

「今度もし寝込んだら、5 分でいいから座っててくれるとうれしい」

「もっと心配してほしい」ではなく、5 分、という具体的な形にすると、相手は受け取りやすくなります。

3 つ目の順番は、相手の側の理由も聞いてみることでした。

「静かにしてくれてたのって、何か理由あった?」

聞いてみて初めて、実家のやり方の話が出てきます。

そこまで来ると、あの夜のドアの音は、冷たさではなかったと分かります。

その夜、二人は「次に体調を崩した日はどうするか」を、簡単に決めました。

しんどい日は、まず 5 分だけ隣に座る。そのあとは静かにする。

決めごとというより、お互いの取扱説明書を 1 行だけ交換した、という感じでした。

してくれたことを先に置く/希望は 1 つだけ小さく/相手の理由も聞く。元気になってから渡し合う 3 つの順番

「どうしてほしいか」を言うのが、なぜ難しいのか

とはいえ、これがいつでもうまくいくわけではありません。

弱っている最中に自分の希望を正確に言葉にするのは、私たちの実感では、かなり難しいことです。

1 つ目の引っかかりは、その場で言おうとすることです。

熱がある夜に「本当はそばにいてほしい」と言うには、思っている以上に力が要ります。

言えなかった自分を責める必要はなく、元気になってからで十分間に合います。

2 つ目の引っかかりは、希望を伝えるつもりが、採点になってしまうことです。

「あのとき、ああしてくれればよかったのに」と言えば、渡されるのは希望ではなく、点数の低い評価です。

同じ内容でも、「次はこうしてくれるとうれしい」と未来の形で置くと、相手は責められたと感じにくくなります。

3 つ目の引っかかりは、形を 1 つに固定してしまうことです。

その日の体調や忙しさによって、ちょうどいい距離は変わります。

「いつも隣にいてほしい」ではなく、「今日は隣にいてほしい」と、その都度言い直せるほうが、二人とも楽でいられます。

そしてもう 1 つ、二人が気づいたことがあります。

しんどい日にしてもらったことへの「ありがとう」は、その日のうちに小さく渡したほうが届きやすい、ということです。

回復してから何日もたつと、あの鍋のことも、紙に書かれた字のことも、思い出しにくくなります。

一方で、これから先どう支え合っていきたいかという大きな話は、元気なときに、落ち着いた時間で開いたほうが静かに話せます。

しんどい日の一言と、これからの話は、置く場所を分けておくと、どちらも流れずに残ります。

まとめ

体調を崩した日に少し寂しくなるのは、相手の優しさが足りなかったからとはかぎりません。

優しさの形は、それぞれが育った家や、自分がされて安心したことの側に寄っています。

だから、その場で正解を当てようとしなくてかまいません。

元気になってから、してくれたことを先に置いて、希望を 1 つだけ小さく渡す。

その一言が、次にどちらかが寝込んだ夜の、ドアの開け方を少しだけ変えてくれます。


※ 出典:Bolger, N., Zuckerman, A., & Kessler, R. C. (2000). Invisible support and adjustment to stress. Journal of Personality and Social Psychology, 79(6), 953–961. 報告されているのは傾向であって、どの形の支えが良いかを決めるものではありません。