八月の終わりの夜、網戸のむこうで、遠くの花火の音が小さく鳴っています。片方がアイスの棒を持ったまま、「今年の夏、何かしたっけ」とつぶやきます。もう片方も、すぐには答えられません。二人で過ごした時間はたしかにあったはずなのに、思い出そうとすると輪郭がない。何もしていなかったのでしょうか。それとも、残していなかっただけなのでしょうか。(架空の物語です)
この記事でいっしょに考えること
- なぜ、一緒に過ごしたはずの時間が思い出せなくなるのか
- 何もなかったのか、それとも残していなかっただけなのか
- どうすれば、二人の時間は流れずに残るのか
- 「思い出づくり」を頑張ると、なぜ疲れてしまうのか
なぜ「今年の夏、何してたっけ」で言葉に詰まるのか
結婚して3年目の夏の終わりでした。
エアコンを消して網戸にした部屋は、少しだけ外の音が入ってきます。
「今年の夏、何かしたっけ」
聞いたほうも、責める調子ではありません。ただ、口に出してから自分でも驚いていました。
もう片方は麦茶のグラスを置いて、少し考えてから「花火、行けなかったね」と答えます。
そのあとが続きません。
二人が思い出せないのは、二人の時間が減ったからではなく、良かった時間ほど言葉にされないまま流れていくからです。
壁のカレンダーをめくると、そこには仕事の締め切りと、歯医者の予約と、赤い丸のついた「花火大会」がありました。
丸のついた日は、片方の残業で流れています。
書き込まれているのは、予定と用事だけでした。
その間の三か月に、実際は何度も一緒に笑った夜があったはずなのに、紙の上には何も残っていません。
思い出せないという感覚は、少しだけ心細いものです。
一緒に暮らしていて、毎日顔を合わせているのに、過ぎた時間だけが手ざわりを持たない。
そのとき人は、「自分たちの関係が薄くなったのかもしれない」と考えてしまいがちです。
けれど、その夜の二人に起きていたのは、たぶん別のことでした。

何もなかったのか、それとも残していなかっただけなのか
片方がスマホの写真フォルダを開きました。
指でさかのぼると、七月の写真が出てきます。
ピントの合っていない食卓。買ったばかりの小さな扇風機。ベランダで枯れかけた鉢。
その一枚を見た瞬間、もう片方が「あ」と声を出しました。
「これ、あの暑い日だ」
猛暑日の夕方、駅まで迎えに来てもらった日でした。
改札を出たら、車のエアコンがすでに効いていて、助手席に冷えた麦茶が置いてありました。
思い出せなかった夏は、何もなかった夏ではなく、その日のうちに言葉にされなかった出来事の集まりです。
出来事を、あとで思い出せる形に置き換えて頭に入れることを、符号化(ふごうか)と呼びます。
私たちの実感では、その場で「これ、うれしかった」と言葉にしたことのほうが、あとから出てきやすいように思います。
言葉になっていない出来事は、なかったことにはなりません。
ただ、取り出す手がかりがないまま、奥のほうに置かれてしまいます。
二人はそのあと、写真をさかのぼりながら、ぽつぽつと思い出していきました。
エアコンのフィルターが、いつのまにか洗ってあったこと。
片方が寝込んだ週に、もう片方が二人ぶんの食事を黙って作っていたこと。
深夜に二人でコンビニまで歩いて、何も買わずに帰ってきた夜があったこと。
思い出せなかったのは、たしかに三か月ぶんの空白ではありませんでした。
出てこなかっただけで、どれも二人のあいだにあった時間です。
そう分かると、「今年の夏は何もなかった」という言い方は、少し違っていた気がしてきます。
どうすれば、二人の時間は流れずに残るのか
その夜から、二人は小さなことを始めました。
寝る前に、その日の「これがよかった」を一言だけ、お互いに残す。
二人の時間を残すのに要るのは、特別な予定ではなく、その日のうちに「今日はこれがよかった」と一言だけ言葉にすることです。
1つ目のこつは、その日のうちに置くことでした。
週末にまとめて振り返ろうとすると、平日の細かい出来事はもう戻ってきません。
寝る前の1分で十分です。
2つ目のこつは、短くていいかわりに、具体的な言葉を1つ入れることでした。
「今日はいい日だった」だけでは、あとから見ても、どの日か分かりません。
「麦茶、冷やしておいてくれて助かった」と書いてあれば、その一行だけで車のエアコンの冷たさまで戻ってきます。
3つ目のこつは、自分のメモにせず、相手に向けて渡す形にすることでした。
同じ「よかった」でも、自分の手帳に書けば記録になり、相手に渡せば「ありがとう」になります。
渡された側は、自分のした小さなことが相手に届いていたと知ります。
二人はそれを、その日のうちに一言ずつ交わすようにしました。
やってみると、書くことが見つからない日もありました。
そういう日は「今日は特になし」でもかまわない、ということにしました。
続けるための余白がないと、たいてい三日で終わってしまうからです。

「思い出づくり」を頑張ると、なぜ疲れてしまうのか
九月に入って、片方が「来年はちゃんと計画しよう」と言いました。
花火も、海も、遠出も、今度こそ予定に入れよう、と。
その気持ちはうれしいのに、聞いたほうは少しだけ肩に力が入るのを感じました。
思い出は、大きな予定を増やすことよりも、すでにあった一日に名前を付けることで残りやすくなります。
1つ目の落とし穴は、予定を詰めることで埋めようとすることです。
予定は、増やせば増やすほど、準備と移動と天気の心配を連れてきます。
そして流れた予定は、「またできなかった」という小さな負い目になって残ります。
2つ目の落とし穴は、写真に任せきりにすることです。
写真はその場面をよく残しますが、そのとき自分が何を感じていたかまでは写りません。
夏の写真フォルダを開いて、料理の写真は出てくるのに、その日の会話が出てこないのは、そのためだと思います。
3つ目の落とし穴は、続かなかった日を責めることです。
一言を残す習慣は、途切れます。忙しい週も、気持ちが向かない週もあります。
途切れたときに、また今日から置き直せばいい、と思えるかどうかで、その習慣が半年もつかどうかが決まるように感じます。
続けられなかった日を数えはじめると、せっかくの一言が宿題に変わってしまいます。
もう1つ、二人が気づいたことがあります。
日々の一言と、「この先どうしたいか」という大きな話は、置く場所を分けたほうが静かに話せるということです。
寝る前の一言に将来の相談を混ぜると、どちらも中途半端になります。
来年の夏をどう過ごしたいかは、休みの日の明るいうちに、あらためて二人で開くことにしました。
まとめ
一緒に過ごした時間が思い出せないのは、二人の関係が薄くなったからとはかぎりません。
良かった時間ほど、その日のうちに言葉にされないまま流れていきます。
だから、特別な予定を増やす前に、寝る前の一言を1つだけ残してみる。
「今日はこれがよかった」に具体的な言葉を1つ入れて、自分のメモではなく相手に渡す。
その一行が、来年の夏の終わりに「あの日ね」と言い合える手がかりになります。
